安芸吉田・広島紀行4 高林坊 / 清住寺

 13日土曜日は、小早川隆景館跡の藤杜(フジモリ)神社から再び多治比川を渡って市街中心部へ戻り、県道29号線に面した戎神社へ赴きました。

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 祭神は蛭子神(ヒルコノカミ)・事代主神(コトシロヌシノカミ)・大江広元(オオエノヒロモト)の三柱で、御神体は大江広元木造です。

 慶長8(1603)年に広島城下に遷座されて胡子(エビス)神社となりましたが、毛利氏先祖の大江広元像は広島藩福島正則を憚って吉田に留め置かれたようで、小さな社が維持されました。なお、広島市内の胡子神社は昭和20(1945)年の原爆で消滅した後に再建されています。

 戎神社に隣接して浄土真宗本願寺派高林坊(コウリンボウ)があります。

 ここの鐘楼門には、建武2(1335)年鋳造の銅鐘〔広島県指定文化財〕が架かります。

 銘文によると、元来は高田郡甲田町甲立にあった石室寺に懸けられていた物で、銘文中「建武第二刻十月廿四日」と鋳造年月日が刻まれており、鋳物師(イモジ)は河内国の名工丹治友重です。上下帯素文で、乳は一区内に四段四列の16個あり、南北朝時代の標準的な作例です。総高は87.4?、口径は46.1?、重量は100.5?に及びます。

 『国郡志下調帳(コクグンシシタシラベチョウ)』には、甲立の宍戸氏が陣鐘にしていたものを当寺に寄進したと記されており、石室寺の荒廃後、一時宍戸氏の手に渡っていたと推定されています。

 本堂です。

 続いて、浄土宗智水山清住寺に参拝しました。

 ここの本尊は10世紀製作の千手観音菩薩立像〔広島県指定文化財〕です。

 一木造の四十二臂(ピ)像で、合掌手先及び脇手全ては後補ですし、他にも後世の修理箇所が認められますが,独特の優麗なる面相表現が印象的で,裳裾(モスソ)には翻波(ホンパ)文が見られます。33年に一度しか開帳されない秘仏で、写真も非公開です。

 この仏像は、吉田荘の堂宇に安置されていましたが、毛利弘元(1468〜1506)の時に郡山満願寺境内に堂を建立して移されました。

 弘元の次男元就は出陣のたびに祈願をするなど厚く崇敬していましたが、天正17(1589)年に輝元が広島城に本拠を移す事を決めた際、この仏像を移動しようとしたら、その厨子は「重きこと大磐石の如し」として吉田に残され、清住寺に安置されたと伝えられます。

 清住寺から巡礼堂縄手を東北へ進むと、県道318号線との交差点に出ます。

 ここが新町跡です。

 ここから県道318号線を西北へ進み、安芸高田市歴史民俗博物館へ向かいます。

 安芸高田市役所です。旧吉田町役場を改築したモダンな建物です。

 区役所前から県道6号線を進むと、博物館が見えて来ます。

 博物館前には司馬遼太郎文学碑がありました。

《続く》